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2010年11月

明治6年の英語テキスト『世界商売往来』のpencase ~筆箱事情調査シリーズ~

明治6年(1873年)再刻(再版のことと思われます)の『世界商売往来』という本があります。
PhotoPhoto_2(初版は明治4年 1871年)
  これは、海外貿易用商品や語彙を集めて編集したもので、始まったばかりの学校教育の教科書としても採用されたものだそうです。
・上段…英語とその読み方(カタカナ表記)と日本語訳(楷書表記)
・下段…崩し字にカタカナの振り仮名、一部はそのものの絵
が掲載されています。
アルファベット順やいろは順ではなく、カテゴリー別(船舶用語 数字 食品 動物 など)に並んでいて、英和辞典にも和英辞典にも使えます。

この本の中の文房具が集めてあるページに、「筆入」がありました。
あいにく、筆箱の図版はありませんが、「pencase ペンケース」に「筆入」という訳がついています。
Photo_3

この事典の他の文房具の訳を見ると、

「ink  インキ」 → 「墨」「墨汁 スミ」
「inkstand インキスタント」 → 「墨汁壺 スミイレ」
「slate スレート」 → 「石盤 セキバン」
「slatepencil スレートペンシル」 → 「石盤筆 石筆 セキヒツ」
「penknife  ペンナイフ」 → 「筆切小刀 フデキリコガタナ」
「paper  ペーヘル」 → 「紙 カミ」
「pen  ペン」 →  「筆 フデ」
「ruler ルーレル」 → 「定規 ジヤウキ」
「foldingstick フオールデクスチック」 → 「箆 ヘラ」
「table テーブル」 → 「机 ツクヘ」
「Sealingwax シールリンウヲツクス」 → 「封蝋 フウジロウ」
「Wafers ウエーフェル」 → 「封糊 フーノリ」

となっています。

翻訳は、両方の国に同じものがあれば置き換えればいいわけですが、片方の国にしかない場合は、新語を作ったり旧来の言葉を組み合わせたりする必要があります。

ここで注目すべきは、pen」  が 「筆」 と訳されていることです。
今の私たちなら、「pen」は「ペン」であり、筆とは違うものと区別しているわけですが、当時は「ペン」では意味がわからなかったから、「筆記用具」として日本にあった「筆」をあげたのだと思います。
インクが「墨 墨汁 スミ」と訳されているのは、日本の墨を輸出のために説明するというより、外国の「ink」を買う時にその用途がわかるようにということでしょう。
それならば、「pencase 」は「ペンの入れ物」であり、「pen」=「筆」、「case」=「入れ物」で、外国の「pencase」を「筆入れ」と訳したのではないでしょうか。

「pencase」は、文字どおり「ペンの入れ物」であったかもしれませんが、「鉛筆の入れ物」であった可能性もあります。
それは、鉛筆を携帯するために使われていた道具が「ペンホルダー」という名前であったりするためです。

アンティーク・シルバーアクセサリー専門店のブログ アンティークの“プライド店長日記”アンティーク 鉛筆ホルダーの記事には、「英国製のアンティーク鉛筆ホルダー。イギリスではペンホルダーと呼ばれています。」と書かれています。
他にも、Donum 1900年頃ベルギー・真鍮・ペンホルダー Ⅱ や ギャラリーグレースBLOG の SILVER Pen Holder England にも、同様の鉛筆用の補助軸が「ペンホルダー」という名前で出てきます。
(もちろん、ペンシルホルダーという言い方で通用していることも多く、「pencil holder」で画像検索すると、同様の鉛筆ホルダーがたくさん見つかります。「pen holder」も意味の幅の広い言葉で、ペンを挿す場所や筆立ても含まれます。)

なので、「pencase」は、「ペン用」か「鉛筆用」か断定はできませんが、存在したことは確かです。

これを、先の年表に入れると、次のようになります。

1873年 pencase=筆入 という訳があり、pencaseがイギリスまたは英語圏にあったと思われる。
     
(初版の1871年までさかのぼれるかも)

1886年 スイスに木製筆箱が存在

1910年 伊東屋カタログに舶来筆箱が掲載
     (同時期に国産筆箱があったと思われる)

1912年 イタリアに筆箱が存在
     (1906年以前、あるいは1870年代までさかのぼれるかも?)

1931年 ポーランドに筆箱が存在
     (1900年頃までさかのぼれるかも?)

その国に、筆箱を指す名詞があるかないかは、そのものが存在したかどうかの手掛かりになります。
その名詞が存在しても、複合語なのか(例:筆+箱=筆箱)、外来語扱いなのか(例:ペン)でも変わってきます。

それに気づいて調べてみたところ、筆箱調査は思いがけず古い時代にさかのぼってしまい、また広がってしまったのでした。(…どこまで続く)

☆   ☆   ☆   ☆   ☆

『世界商売往来』は、ネット上で読めることが後でわかりました。
古典籍総合データベース(早稲田大学) より、世界商売往来 のページを開き、画像をクリックしてPDFファイルを開きます。

奈良教育大学教育資料館所蔵 往来物の解説 からも、現物を読むことができます。

まだ入手していませんが、『世界商売往来』の索引も存在します。(→『世界商売往来用語索引』

☆鉛筆を挿して鎖などをつけ携帯して使う「ペンホルダー」専用鉛筆については、現物は持っていますが、本の資料が見つからず、いつ頃、どのように流通していたのかまだわかりません。
いずれは別記事で書けたらいいなと思います。

【このブログの関連記事】

→ カテゴリー シリーズ:筆箱事情調査 … 筆箱(筆入れ)の歴史をさかのぼって調べています。だんだん苦手分野が増えてきて、時間がかかっています。

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ユングは筆箱を使っていた ~筆箱事情調査シリーズ~

スイスの心理学者 C.G.ユング(1875~1961)の自伝の中に、筆箱が登場していました。

「私が十歳の時に行った行為」とありますので、1886年頃となります。

 当時私は小学校の生徒がみんな使っていた小さな鍵と、定規つきの黄色い、ニスを塗った筆箱をもっていた。この定規の端に私はフロックコートを着て背の高い帽子をかぶりぴかぴかの黒い長靴をはいた長さ約二インチの小さな人形を刻み、インクで黒く塗り、のこぎりで切り離し、筆箱に入れていた。筆箱の中にはこの人形のためにベッドを作り、布切れで上着まで作ってやった。私はまたライン川からとってきたつるつるした長い楕円形の黒っぽい石を筆箱の中に入れ、上半分と下半分とを絵の具で塗りわけ、ずっと長いことズボンのポケットにいれておいた。

ユング自伝Ⅰ―思い出・夢・思想―みすず書房 より

さらに、ユングは、この筆箱を屋根裏部屋の屋根の下の梁の上に隠し、自分が傷ついた時などにその筆箱を開けてみて、さらに授業中に作った「秘密の言葉で何かかいておいた巻紙」を入れていく、という行為をしていたそうです。

儀式用に使ってしまったら学校で使う筆箱はどうしたんだろうという疑問はさておき、ここではユングのいた小学校の生徒がみんな筆箱を使っていたというのに注目です。
しかも「ニスを塗った」ですから、これは木製筆箱と考えてよいでしょう。
西洋の木製筆箱には、蓋がスライド式になっているもののほかに、蓋が開かないように金属の留め具がついているものがありますので、「鍵付き」といっても、日本で一世を風靡したような別鍵付きのものではないと思います。
「定規つき」というのは、別に定規がついているのか、蓋に定規の目盛りがついているもの(こういうタイプも存在します)か書いてありませんが、蓋を2インチも切り離してしまうと人形を隠すのに不都合かなと思うので、別に定規が付属しているものと推測します。

(考察) 1886年頃のスイスの筆箱事情

・小学生は木製筆箱を使っていた。(黄色いニス塗り 鍵つき)

・木製定規が付属していた。

以前の記事イタリア児童文学『悪たれジャンの日記』の筆箱の年表に付け加えると、次のようになります。

1886年 スイスに木製筆箱が存在

1910年 伊東屋カタログに舶来筆箱が掲載
     (同時期に国産筆箱があったと思われる)

1912年 イタリアに筆箱が存在
     (1906年以前、あるいは1870年代までさかのぼれるかも?)

1931年 ポーランドに筆箱が存在
     (1900年頃までさかのぼれるかも?)

1886年(明治19年)の日本の教育状態を見ると、

1880年頃  石版と石筆導入(それ以前は毛筆のみ)

1900~1910 洋紙による子どもの学習用雑記帳市販(鉛筆使用始まる)

1912年    本格的な洋紙教科書(国定教科書)登場

1921年頃  学童用五厘鉛筆の普及始まる(農漁村地区でも一人一本は)

※参考資料新訂 教育の歴史 佐藤秀夫 放送大学教育振興会

であり、スイスに筆箱があったころ、日本はまだ毛筆が主流で、筆記用具は「毛筆」です。
毛筆用筆を入れる「筆箱」も過去に存在しますが(教育博物館所蔵)、江戸期のもので長さ30cmもあり、毎日携帯するのには不向きな気がします。
それよりは、「筆巻き」や「硯箱」の方がより日常的だったと思われます。
やっと国産鉛筆の製造が始まったのが1887年(三菱鉛筆の前身 眞崎鉛筆製造所)なのに、それより前に、遠いスイスに日本の影響を受けた筆箱が普通にあるというのは疑問です。

このように見てくると、私の立てた

(仮説2) 蓋がきちんとしまる木製筆箱発祥の地は西洋である。

の方が、「筆箱の起源は日本」説よりも、自然なのではないでしょうか。

「蓋がきちんとしまる」については、また記事を改めて書きたいと思います。

     ☆   ☆   ☆   ☆   ☆

なお、ユングの資料に行きつけたのは、サイトSnow Falling on Cedarsの記事C・G・ユングと石のおかげです。
元の資料にあたって確認することができました。
ありがとうございました。

【このブログの関連記事】

→ カテゴリー シリーズ:筆箱事情調査 … 筆箱はどこで生まれたのか? 日本起源って本当? と調べ始めたら、資料がいろいろで、収集がつかなくなっているシリーズです。気長に書きたいと思います。

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